壺齋散人の旅
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伊東温泉東海館:昭和初期の木造旅館を見る




伊豆伊東の温泉街の一角、松川の流れを背後にして、古びた木造の建物が立っている。東海館といって、かつては温泉旅館だった建物である。今は市の観光施設に衣替えして、一般の人々に開放されているから、伊豆に遊んだ人は気軽に立寄ることができる。

横に細長い三階建ての建物の正面には、写真に見るような唐破風仕立ての玄関が開いている。それをくぐると内部は、昔なつかしい和風の番台だ。番台の奥には、左側に風呂、右側に客室が配置されている。外側からはわからないが、建物は中庭を挟んでロの字型になっていて、客室部分は建物の裏側にある。そこは松川の流れに面しているのである。

館員に案内されて建物の内部を見物する。まず客室部分だ。細長い廊下に面していくつかの客室が並んでいるが、それらはみな廊下の線に対して垂直ではなく、20度くらい斜めに傾いている。それらを一望におさめると、雁行しているように見える。館員によれば、これは各部屋の独立性を高めるための演出なのだそうだ。

各階の部屋は、上下の線にそって構造上相似形に作られている。なかでも一番外れの部屋は、この旅館の売り物として、特別の意匠が施されている。旅館の主人はこれらをそれぞれに違った大工に作らせるにあたって、あるテーマを与えた。一階の部屋には楷書のイメージ、二階の部屋には行書のイメージ、三階の部屋には草書のイメージを求めたのである。

大工たちはこのテーマを、付け書院や化粧柱、天井などに表現した。楷書の部屋には端正な雰囲気、行書の部屋にはくつろいだ雰囲気、草書の部屋には崩れた感じが読み取れる。昔の大工の遊び心が、今見る人にも伝わってくるのである。また部屋ごとに用意された卓にも、この遊び心は表れていて、一階の部屋のものが真四角なのに対して、三階のものは丸い。

各階の部屋はいずれも松川の流れに面しており、客は川風に当たりながら、一夜の宿を楽しんだであろうということが推測される。

ついで三階の大広間を案内された。120畳敷きの大きな部屋で、一隅に舞台を配している。この舞台はあまり大きなものではないが、館員がいうには、舞妓が踊るのに適した空間だそうだ。

広間の中程には仕切りがあった。仕切りの中心部は開放されていて、両側に二重の壁がある。これは建物の強度を上げるために、後で施されたものだそうだが、当初完全に壁で広間を二分する計画であったものを、広間としての一体性を保つために、このような形にしたのだそうだ。

最後に望楼に案内された。急な階段を上っていくと20畳敷きくらいの空間があり、そこからは伊東の市街が四方に望める。

伊東は明治大正の頃までは交通の便が悪く、政治家たちの別荘があるくらいだったというが、鉄道が敷かれてからは俄然温泉地として賑わうようになり、昭和の初期には松川沿いに木造の旅館が立ち並ぶようになった。その殆どは消滅してしまったが、ここ東海館は生き残り、営業を廃止した後にも市に引き継がれて、こうして人びとに開放されているという話だ。市では乏しい予算のなかから毎年いくばくかをさいて、建物の保存に努めているらしい。

ところで筆者がこの建物を訪れたのは、親しい友人らと伊豆旅行をしたついでのことだった。この友人らとの旅行については、先稿のなかで、会津や駒ヶ根への旅について触れたところだが、今年は伊豆を目的地に選んだ次第なのだった。

筆者らは車で東京を出発して東海道を下り、途中小田原の文学館に立寄ったりして昼頃伊東に到った。浜辺近くの「かっぽれ」という店で昼食を喫したが、そこで食ったカリンチョという魚がなかなかうまかった。写真にあるような魚で、深海魚の一種なのだそうだ。肉は白身で結構油が乗っていた。



東海館へは、一旦宿泊先の大和館という旅館にチェックインしてから立寄った次第だ。仲間の一人が事前にその所在来歴を調べてくれていたのである。







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