壺齋散人の旅
HOMEブログ本館日本文化美術批評東京を描く水彩画動物写真プロフィール掲示板



松代大本営:狂気の跡


松代に大本営が造営されたのは大戦末期の1944年11月以降のこと、終戦によって工事が中断されたため、結局大本営として使われることは一度も無く、歴史の遺物としてひとびとの心の片隅にのこるだけとなった。そんな遺物を、先日筆者の知人が訪れて、大変な迫力を感じたと話してくれたので、今回別の仲間と松代を訪ねることとなった際には、真っ先に寄って見たいと思った次第だった。

実際内部をみて驚きの連続だった。我々が見たのは象山の地下に広がる防空壕網だったが、その規模の曖昧さが魑魅魍魎の世界を連想させ、これにかけた人間集団の狂気のすさまじさを物語っているように思えたのだ。

こんな粗末な人造の洞穴を拠点に本土決戦を宣言し、無辜の国民をまき沿いにしてむちゃくちゃな焦土戦を仕掛けようとした人間集団、しかも一国の運命を担っていた集団がいたということに、筆者などは大いなる戦慄を感じざるを得ない。この集団の狂気がもし実行されていたら、日本の国はいまごろどうなっていたかわからない、それほど恐ろしい狂気が、かつてのこの国を疫病のように支配していたとは、松代の大本営跡はそんなことをひしひしと感じさせる。

我々はひんやりとした隧道の中をゆっくりと歩きながら、それが碁盤の目のようになっていること、所々にこぶのような広い空間があること、またここの隧道網全体の総延長は約7キロ半で、そこに政府機関、報道機関などが収容される予定であったことなどを知らされたが、いったいこんな狭い隧道のどこに大勢の人間を収容しようと考えたのか、わからないことが多かった。

ところが、大本営跡のゲートの前に、小さな建物があって、そこで大本営に関する情報を得ることができた。

建物はたった二つの部屋からなる小さなものだが、壁には資料がたくさん陳列されている。我々がそれらを見ていると館員の人が近寄ってきて、大本営にまつわる歴史や、それが最近になって公開されるにいたった経緯を話してくれた。

その人によれば、この防空施設の存在は地元では無論誰でも知っていたが、それを口に出すものは誰も無かった。そんな状況の中でこの施設の存在が日本の歴史の中で埋没しかかっていた。それに問題意識を投げかけ、公開するようにもっていったのは、地元の高校生の地味な努力だったという。

その地元の高校生が修学旅行で沖縄を訪れたときに、そこに沢山の防空壕があるのを見て、自分の村にもある巨大な防空壕を思い出した。そして沖縄の防空壕では沢山の人々が蒸し焼きにされたことを聞かされて、自分の村のあの巨大な防空壕ではいったい何が起こったのかを知りたくなった。この時のこの少年の思いがやがて、大本営跡をふたたび歴史の表舞台に引き出した原動力になったと、その人は言うのだった。

なるほど、歴史的な意義を持った施設でも、その意義を理解する人たちがいなければ、時の流れの中に埋没してしまう。松代の大本営跡も、地元の高校生たちが問題意識をもたなかったら、そのまま時空の彼方に消え去っていたかもしれない。







HOME壺齋散人の旅次へ










作者:壺齋散人 管理者:えかきあひる  All Rights Reserved (C) 2005