壺齋散人の旅
HOMEブログ本館日本文化美術批評東京を描く水彩画動物写真プロフィール掲示板



宗廟、昌徳宮:ソウル滞在記 その二




十二月十一日(日)晴。七時起床、七時半大型バスに乗り込む。乗客はヴィクトリアホテルから乗り込みたる二組のほか、ロッテホテルから乗り込みたるもの数組、あわせて十七-八名なり。

三十分ばかりして、とある食堂に入る。そこにて韓国風朝食なるものを食ふ。飯と和布のスープのほか、キムチ、海苔の佃煮、海草のサラダ、落花生の煮ものなり。器をみるに、飯椀、匙、箸いづれも金属製なり。箸などは先端とがりて小剣の如し。

菜はみな大蒜の匂ひ紛々たり。余朝から大蒜を食ふ習慣を持たざれば、和布のスープを飲むにとどむ。これとても口にあはざりき。

最初の観光は宗廟(ジョンミョ)なり。ソウル市街の中心に北接してあり。宗廟とは李氏朝鮮王朝二十七代のうち十九代の王並びに王妃の位牌を安置するものなり。

十四世紀末に建てられ、その後豊臣秀吉によって破壊せられながら再建・増築を重ね、十九世紀半ばに今日の姿になりたり。朝鮮王朝二十七代のうちこの廟堂に祀られざるものは、隣接する小廟に別途祀られをる由なり。



ついで隣接する昌徳宮(チャンドックン)を見る。昌徳宮は十五世紀初頭景福宮の離宮として建てられしが、後に歴代の王の住居兼統治の場として用ゐらる。ここもまた豊臣秀吉の侵略軍によって破壊せられしが、景福宮より早く復旧せられし由。最後の王純宗もここに暮し、その後朝鮮最後の皇太子に嫁ぎたる梨本宮方子女史もこの宮殿内の一角に暮しをりし由なり。



昌徳宮の建造様式は明の宮殿を参考にすといふ、ただし紫禁城の如く一直線上に建物を配置することは地勢状無理なりしかば、三つの門は勾配を描くやうに配置せらてあり。最初の門を敦化門といひ、二つ目の門を進善門といひ、三つ目の門を仁政門といふ。仁政門の奥には正殿たる仁政殿あり。

仁政殿の屋根には厄除けの飾りのほか竜頭を搭載してあり。派手になすことは明の使者の手前憚られたれば、ごく目立たぬやうにとの工夫せられてあり。



仁政殿は朝鮮王朝の象徴として民衆の畏敬を集めたる処なれど、日韓併合後は朝鮮総督府に接収せられ、伊藤博文の公邸として使用されし由、ガイドの金忌々しさうに語れり。上の写真は伊藤が使用しをしりといふ机なり。

仁政殿に隣接して梨本宮の住みをりしといふ住宅たちたり。朝鮮の貴族の屋敷を再現したるといふなれど、造りは至って質素なりき。

余は梨本宮方子女史については殆ど知るところあらず、かへって韓国人の金よりその生涯について聞かされたり。

方子女史は日韓融和の象徴として朝鮮王朝最後の皇太子李垠と結婚す。もともと昭和天皇の妃候補のひとりと目されをりしが、不妊の診断を下されて朝鮮皇太子に嫁がさる。朝鮮の皇太子に跡継ぎ有らざれば日本にとって都合善しとの判断働きたるなり。もっとも診断は誤診にて、方子女史は三人の子を出産せしといふ。

千九百六十三年大統領朴正煕の計らひにより李垠とともに帰国、千九百七十年李垠死亡して後は、慈善事業に情熱を注ぎ、障害者の人権保護などに多大なる貢献をなせしといふ。そのため今なほ韓国民衆に敬慕せられをる由なり。

ついで紫水晶館なるところを案内せらる。紫水晶は英語名をアメヂストといふ。韓国名産の宝石なり。そのコレクションを日本文字にてコルレッションと表記す。余コルレッションのうちより携帯電話用ストラップ数点を土産に買ひ求む。

付近の小さな食堂にて昼餉をなす。入店後まづ便所に入るに、扉に男女の別を表記して、男をシンサ、女をスクニョとハングル文字にて記せり。即ち紳士淑女なり。

主菜はプルコギといひて、ジンギスカンの如きものなり。そのほかは、キムチ、海草のサラダなど朝食と殆ど変らぬものを出さる。きはめて味気なし。ただビールの酒精度は中国と異なり四度半ばかりあり。もっともホップの風味薄く、アルコール入りの炭酸水を飲むが如くなり。







HOME壺齋散人の旅次へ










作者:壺齋散人 管理者:えかきあひる  All Rights Reserved (C) 2005