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山陽紀行(その一):福山・鞆の浦 |
(福山城) 平成廿八年六月八日(水)早朝東京駅構内にて待ち合はせ、八時十分発の新幹線のぞみ号に乗る。車中朝食用に買ひ求めしサンドイッチを頬張り缶ビールを飲む。サンドイッチはパンに潤ひなくパサパサとして布を食ふが如し。英生は余を待つ間に既にしたたかに飲食せし由なり。 十一時四十四分福山に到着す。ここにて鞆の浦を見物せんとて下車す。新幹線ホーム上より福山城の雄姿を見る。のちほど時間の余裕あらば見物すべしとて、まず鞆の浦に向ふこととす。その前に腹拵へせんとて駅前なる一食堂に入る。土地のもののあいだに人気ある由ネット情報にて知れり。果たして店前に順番を待つもの行列を作りてあり、店内を見れば、客は速やかに回転しをるようなればしばし待つこととす。 待つこと十数分にして店内に導き入れらる。余はビフカツ(ビーフカツレツのことなり)を注文す。余未だビフカツを食ひしことなし。先日読みし村上春樹のエッセーにビフカツへのこだはりを記し、ビフカツは実に美味なりとありしかば、機会あらば是非食ふてみんと思ひをりしなれど、如何せん関東界隈にはビフカツを食はせる店を見ず、残念に思ひをりしところ、福山に美味なるビフカツを食はせる店ありとネット情報もて知りたれば、欣喜雀躍してビフカツを注文したる次第なり。 しかるに目前に出されたるビフカツを見れば,藁草履の如く薄っぺらにて、肉とコロモ相馴染まず。箸もて摘まんとすれば、材料分離断裂して廃物を見るが如し。味も美とはいふべからず。かかるものをありがたく食ふ人種の舌は如何に作られをるか疑問を感ぜずんばあらざるなり。 食後バスに乗りて鞆の浦に至る。折から天気は雲を催せども降雨の兆しはなし、風景を見るには好都合なり。さて鞆の浦は、天下に名高き景勝の地にして、雲仙・霧島とともにわが国最初に国立公園指定を受けしといふ。しかるに近年開発の波押し寄せしと思しく、貴重なる景観を損なふが如き計画進められをるといふ。いかなる計画なりやその詳細は知らざれど、この日その一端を伺ふことを得たり。 (対潮楼) バスを降りて海岸沿に歩みつつ、対潮楼なる建物を眺めをりしところ、その前の渡し舟乗り場より一の老嫗現れ来たり、余らに向かって対潮楼の由来を語り出せしが、そのうちに鞆の浦の開発計画とその中止のいきさつについても語れり。老嫗いふには、鞆の浦を横断する橋を架けるは土地のものの長年の願ひにて、その願ひがやうやく実現に向け動き出したるところ、部外者が聞きつけて大反対運動を巻き起こし、全国の注目を集めるに至りしが、推進に熱意を示しし市長も反対派の剣幕に破れ、つひに計画を撤回する事態に追ひ込まれしなり。我ら地元のものにとって長年の願ひなりしに、一部のものの声高き反対にあひて挫折したるは実に心外なり。さういひて老嫗は憤懣やるかたなしの模様なり。 (鞆の浦港) 鞆の浦の港に至れば、海上には多くの船もやひ、前方には海に向かって山急迫し、その腹に抱かれて多くの家々佇みてあり。老嫗が語りし橋の計画とは、この港を横断して対岸と結ぶことにより、尾道・広島への接続が便利になるといふものなり。これを便利と思ふか、あるいは景観破壊と思ふかは、見るものそれぞれの立ち位置によって異なるべし。 鞆の浦の街は狭小な路地を囲みて木造の建物櫛比してあり。道狭ければ車の通行を許さず。よって土地の人びとは交通に不便を託ち、それが橋の計画を希求せしむる要因となれるが如し。 (保命酒醸造所) 木造の建物の一つに入る。古い醸造所にして保命酒なる滋養強壮剤を作るものなり。養命酒の如きものなるべし。生薬を焼酎に溶かせるものにて甘い味といふ。英生は試飲みしたれど、余は飲まざりき。 (仁王寺より望見) その後市街西側の斜面を登り、仁王寺なるところから港を望見す。手前には鞆の浦の港、遠方には瀬戸内海の島々を臨む景勝の地なり。 (対潮楼より望見) 先ほど下から見上げし対潮楼に入り、そこより瀬戸内海の風景を見下ろす。対潮楼はもと福善寺といひしが、徳川時代に朝鮮通信史が航海の途中に立ち寄り、そこからの眺めを絶賛してこの寺を対潮楼と名づけしなり。鴎外漁史は本郷の書斎を観潮楼と名づけしが、朝鮮通信史がこれを対潮楼と名づけしは、眼前に潮の流れの速さを実見して感心したるがためか。 閣内の一角に「幕末維新の志士達」と題する記念写真を展示してあり。なにかと思へば、いわゆる維新の志士の集合せるところを撮影したると主張するものにて、オランダ人フルベッキを囲んで、西郷、大久保、桂、坂本、勝海舟ら四十数名の姿を写し、それぞれについて、だれこれとの説明を添へたり。余かかるものを見たるは始めてのことなれば、ややおどろきて、それぞれ志士なるものの姿形を検分するに、西郷やら木戸やらとても本物には思へず。恐らくは誰かの児戯と思はれたり。児戯にしては大胆といふべく、貧相なる男を目して明治天皇となすに至っては不敬の極みといふべきなり。 |
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