あひるの旅日記
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馬籠宿・妻籠宿:木曽を歩くその一




あひるの仲間たちと共に紅葉を見に行った。バスの一泊旅行で、一日目は木曽の古い宿場町を散策し、木曽駒高原というところに宿泊して、二日目は紅葉で名高い香嵐渓を散策しようというものだった。幹事役はいつものとおり静ちゃんあひるが勤めてくれたが、格安のパックツアーを見つけてきたのは今ちゃんあひるだったようだ。今回はひさしぶりに安ちゃんあひるも参加した。このほか、少尉あひると横ちゃんあひる、それに絵かきあひること吾輩を加えて総勢六羽の旅になった。

バスの発車場は西新宿にある都庁舎の大型車駐車場。こんなところから観光バスが発車しているとは知らなかった。いってみると観光バスが何台も出入りして、大勢の観光客が乗り込んでいた。我々はHISという旅行会社差し回しのバスに乗り込んだ。車内は空席を残さず満員だ。他のバスもみな満員の様子。季節柄景気がいいように見える。

バスは中央高速道路を飛ばして信州に向かった。高尾山辺りでは圏央道の工事が進み、中央道と圏央道を結ぶ巨大なジャンクションが深い自然を切り裂いてグロテスクな姿をさらしていた。埼玉方面へ向かう部分はすでに開通しているのだという。

諏訪湖を右に臨みながらバスは左回転し、伊那谷に入った。すると、左手に赤石山脈が、右手に木曽山脈が迫って見える。吾輩は伊那谷を木曽谷と思い込んでいたので、右手の山が御嶽、左手の山が木曽駒と受け取ったのだが、それにしては様子がおかしいと思っていると、隣に座っていた横ちゃんあひるが地図を広げて勘違いを訂正してくれたのだった。

伊那谷を過ぎて、恵那山の長大なトンネルをくぐると木曽側に出た。そこでまず馬籠宿を訪ねた。前回他のメンバーとここら辺までドライブした折には、駐車場が込んでいて入れなかったところだ。

この宿場町は坂道沿いに展開していて、我々はその上部の起点から坂道を下りながら散策を楽しんだのだった。ここは木曽氏の拠点のあったところで、木曽義仲の屋敷も近くにあったということである。また嶋崎藤村記念館というものが立っているのは、嶋崎の実家がここにあったということなのだろう。藤村自身は幼くして東京へ出てきて、木曽で暮らしたのは短い間だったはずだ。

坂道の途中に郵便局があり、そこにベンチがしつらえられていたので、弁当を開くにはちょうどいいと思い、正面の酒屋で缶ビールを買い求めて、そこで少尉と共に弁当を食った。ほかのあひるたちはバスの中で食ってしまっていたのだった。吾輩も少尉もバスの中で飯を食うのは大嫌いなので、せめて青空の下にても、バス以外の所で飯を食う場所を探したいものだと、かねがね示し合わせていたのである。

馬籠宿の次に妻籠宿を訪ねた。ここは以前に立ち寄ったことがある。その折は街道の南外れから入ったものだったが。今回は北側から入った。この宿場町は光徳寺という寺を中心にして、本陣のある北側と旅籠の連なる寺下と呼ばれる南側とに二分されるが、絵になるのは南側の方だ。吾輩もかつて、「いこまや」という旅籠周辺の眺めをスケッチしたことがある。

北側の外れに水車があったので覗いてみると、わずかな水を丁寧に掬って健気に回っている。これなら米搗きくらいはできそうだ。その水車の近くに土地の人と思われる御婦人が立っていたのを静ちゃんあひるが声をかけて、どういうつもりか、赤唐辛子と鷹の爪の相違について訪ねた。その辺で赤唐辛子を干してあるところを見かけたようなのだ。吾輩は、柿の実を吊るしてあるのは見かけたが、赤唐辛子を干しているところには気が付かなかった。吾輩の気が付いたその柿の実は、見るからにうまそうな干し柿だった。そういえば、前回来たときにもうまそうな干し柿が吊られてあった。ということは、その折も今と同じような季節だったわけだ。

ところで御婦人方が言うには、赤唐辛子もタカノツメも同じものとのこと。静ちゃんあひるは納得のいかない様子だったが、それ以上は追及しなかった。そのかわり、そこに立っていた木に珍しい形の実がなっているのを指さして、あれは何ですのと聞いていた。「カリンですのよ」と御婦人方は答えてくれた。

ここの名物は栗きんとんで、この手のものとしては日本一の店がありますとガイドがいうので、その店に立ち寄って小さい箱詰めを一つ買い求めた。小さい茶巾状の栗饅頭が六つ入っていて値段は1250円だった。(写真は妻籠宿)







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