あひるの旅日記
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アヒルたちの台北小紀行その二(忠烈士祠、九份)



(忠烈士祠)

十二月十六日(日)ホテル内にて朝食を喫せし後、午前八時半バスに乗り込む。まづ忠烈士祠を訪ふ。門前左右に立つ衛兵は微動だにせず、瞬きをもなさず。人形を見るやうなり。やがて衛兵の交代式あり。一時間おきに交代する由なり。

ついで故宮博物院を訪ふ。わずかな時間にては多くを見るべくもなしとて、主に古代の遺物を見つつ、某女の説明を聞く。最も印象に残りたるは、周の時代の青銅盤なり。一面に古文を標す。人類史上最古の契約書類なる由。

市内に戻り、さる土産屋に立ち寄る。ここにて荊婦のために翡翠の首飾りを求む。また女店員に付きまとはれ様々なものを勧めらる。その一つに豚の置物あり。牡が牝の背後より交尾するさまを描いたるものにて、牡は立ち上がって牝を抱え、牝は尻を突き出して悶絶せんとす。雌雄いづれの表情にも独特の幸福感あり。見るものをして抱腹せしめたり。

余、女店員に向かって、何故かかるものを余の如き老人に勧めんとすと問ふに、女店員曰く、豚はめでたき動物にて長寿の徴なり、しかして雌雄交尾をなすは子孫繁栄の徴なれば、長幼を問はず求むべきものなりと。余、その説に一理あるを感ぜしが、かかるものを土産に持ち帰らば荊婦の嘲笑を招くべし。その場にほくそ笑むことを以て足れりとなしぬ。

午下信義路に面する台湾料理屋「鼎泰堂」にて喫す。新宿の高島屋などにも出店しをるなれば、日本人にはなじみ深き店なり。ここは本店の由なれど、間口狭く多くの人を収容する能はず。よって店前席を求むるもの長蛇の列をなす。余らは少時にして席につくことを得、台湾ビールと菜数種を注文す。頗る美味なりき。

食後民主記念館に立寄る。もと中正記念堂といひ、蒋介石の事跡を記念するために建設せられたる建物なり。前回台湾を訪れし折にもここに立ち寄りたり。ガランとせる空間に蒋介石の巨大なる銅像聳え立ちたるさまなど思い出しぬ。その折、我ら四人のうち松子のみは、蒋介石を嫌悪すなどといひて見物することを拒みたり。

この建物名称を改むるに留まらず、蒋介石の個人の匂ひを消却し、面目を一新せんとす。この日はいまだ工事中にて内部に入ることは得ざりしが、かの巨大な銅像も撤去せらるべしといふ。某女このことを評して甚だ残念となす。蒋介石は良きにつけ悪しきにつけ、台湾にとりては歴史上の偉人なり。それを消し去らんするは歴史への挑戦といふべきにあらずやと。

某女がかくいふには訳あるが如し。某女の祖先は蒋介石とともに国を追はれて台湾に逃げて来たる由なり。されば蒋介石にはいささか同情するところあるものの如し。

これに対して現在の陳水扁政権は内省人が中心の政府なり。彼ら蒋介石に象徴せらるる外省人の支配を脱却して台湾の伝統を快復せんとす。その余りに蒋介石のために建設せられたる記念堂も衣替えして、その匂ひを消去せんとす。これが某女の気には入らざるなり。しかして某女陳水扁一味をさして共産党のろくでなしどもなどといふ、その言或は理解すべきこととなすべきか


(九份)

九份は台北の北東数十キロの海岸沿にあり。戦前の一時期黄金の産出を以て栄えたる所なり。かつては山岳に阻まれて陸路より至るを得ず、人々海路を通じて至るといふ。今は山岳道路切り開かれて台北より一時間ほどの道のりなり。

街の手前に検問所あり。一般の車両許可なくして進むことを得ず。許可なきものは専用のシャトルバスに乗り換ふるべしといふ。ここにて怪しき風体の男に行く手を阻まる。我らが車は許可証を持参したるに男その効力を認めず。許可証を押収して去らしめんと欲す。某女大いに驚きて交渉するもなかなか拉致あかず。そのうちに警察官の来るを目にしたれば、警察官を介入せしめて男を追っ払ふ。

某女に事情を聞くに、男は地元のやくざの如しといふ。この連中私設警察官を気取りて一般通通行人を恐喝し、賄賂を受け取るを業となすといふ。いづれ面白き見ものを見たりといふべきか。

街は山岳の斜面の階段に沿ひてレトロな建物立ち並び、すこぶる勝景なり。眼下に港の風景も望み得たり。散策すること一時間、また烏龍茶を喫す。

昏暮市内に戻り、中山北路と民俗東路の交差点なる台湾料理屋丸林魯肉飯店にて晩餐をなす。なかなか風情ある店なり。向側には海鮮料理屋海覇王あり。前回夕餉をとりしことなど思ひ出しぬ。

九時過ホテルに戻る。入浴の後飯店にて買い求めし紹興酒を飲みつつ大いに歓談す。







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