壺齋散人の旅
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水原華城:ソウル滞在記その五




十二月十二日(月)晴。ホテルを七時半に辞すること昨日の如し。昨日とは異なる朝食屋に入りてあはびの粥を食ひて後、ソウル中心部の繁華街に位置するロッテ免税店に案内せらる。店内フロア一面にブランド品のショップ立ち並びたれど、余はあへて買ふべきものあらざれば、休憩コーナーに坐して茶を飲みたり。

ついで青磁器の窯元を案内せらる。主人は韓国有数の陶芸家にして人間文化財に指定されをる由なり。窯は上り窯といひて、勾配をつけてならべたる四個の窯に順次火を送って焼き上ぐるなり。燃料には赤松を用ゐる由。

窯の近くに鳥かご据ゑられてあり。そのなかに一羽のインコあり、止まり木の上を左右に舞ひ動きてあり。余インコに向かってアンニョンハセオと挨拶す。インコ挨拶を返して申さく、アンニョンシーヨ、アンニョンシーヨ。

展示室に入るに、主人店の一角にて制作中なり。また子息なる人、粘土に精巧なる切れ込みを入れてあり。器を二重に重ね合はせ、外側のものに彫刻を施すといふなり。これは火入れの際に破損すること多く、成功率は四五パーセントといふ。

余青磁の夫婦茶碗一対と給茶機一式を買ひ求めたり。

その後バスは一路南に進み、水原を目指す。途中の風景をみるに日本の里山とよく似たり。ただ日本の林に比して落葉樹の割合多いやうなり。

昼餉には石焼ピビンバなるものを食ふ。陶器に盛りたる飯の上にナムルを載せ、それを直火にかけてあたためたるものなり。

水原はソウルの南四-五〇キロほどのところにあり。世界遺産水原華城(スウォンフワソン)あり。華城は十八世近末第二十二代王正祖によって建設せらる。もともとソウルに替る新しき都として建設せられたるなれど、正祖の死によって遷都計画は中止せられ、城郭のみが残されたるなり。

この城郭は、東洋風の築城術と西洋風の築城術とが混合するめずらしき者の由。その珍しさがユネスコに評価せられ、世界遺産の候補となりし由。ただ方々を破損し、保存状態極めて悪しと指摘せられ、韓国政府はわづか一年にして城郭を復旧したりといふ。



これを設計したる丁若鏞なる人物はヨーロッパに留学し、かの地の築城術を学
びたるほか、キリスト教にも深く帰依したり。されど朝鮮にてはキリスト教は死罪を以て禁ぜられし故、丁は帰国後信仰を伏せてをりしが、これを作るに際して自己の信仰の徴をひそかにしのびこませたり。上の写真にあるとおり、十字架のイメージを建物のところどころに配置したるなり。



上の写真にあるとほり、城壁は石造りを基本にしてところどころレンガを使ひてあり。レンガをつかふところが西洋風なる所以といふ。なほ、万里の長城がい二重の城壁なるにたいしてここが単衣なるは、敵の侵略を予想せざるが故のことか、真相を解せず。

城壁全体の長さは五キロほどもあるさうなれど、余らは華虹門をくぐり一キロばかり城壁沿ひに歩き、東暗門を経て蒼龍門を下りぬ。



午後四時頃ソウル中心部に戻り、南大門市場を散策。幾本かの狭小なる路地を挟んで間口の狭き店がひしめき合うなり。衣料品を売るもの最も多し。そのほか装身具やら皮革製品やら、地元の人の需要を満たすための市場と見受けたり。







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