壺齋散人の旅
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陸奥小紀行四:陸奥湾、仏が浦




九月廿一日(日)晴。六時に起床。入浴後朝餉をなすこと昨日の如し。バスは八時にホテル前を出発し、九時頃陸奥湾に面する蟹田という港に到着する。ここからフェリーに乗って、下北半島に向かうわけである。船のデッキからは四方に広大なる海原を見渡せる。しかして前方にはこれから向かっていく先の下北半島が見え、左手には北海道のスカイラインが見え、右手には青森の市街がかすかに見える。後ろを振り返れば、船の通ってきた波の軌跡の先に、津軽半島の遠のいて行く様子が見える。

風もなく波は穏やかで船の揺れが気にならない。時折カモメの群が船の行く手を横切っていく。彼らの視線の先には小さな漁船の姿がある。その漁船の周りに魚がいることを、カモメたちは知っているのであろう。

下北半島が近づいてくるにつれ、海岸線の様子が詳しく見えてくる。大部分は切り立った崖で、その合間に散らばる浜辺に小さな漁村が点在している。灯台の立っている孤島が見えるのは、漁船の安全を配慮したものだろう。この辺は夜間のイカ釣りもさかんなようだから、灯台の灯りは欠かせないのだろう。

一時間ほどの航海の後、フェリーは下北半島の脇ノ沢という港に着いた。鉈の刃先のような形をした半島の、刃の一番下にあたる部分に位置する。バスはここから鬱蒼たる森林地帯を抜けて、十二時頃佐井という港に着く。この港から遊覧船に乗って、仏が浦の絶景を見物しようというのである。

仏が浦といえば、内田吐夢の映画「飢餓海峡」が思い起こされる。三国連太郎演じる復員兵が、宗谷丸の沈没事故の混乱に紛れて、小舟を上陸させたのが仏が浦の絶壁ということになっていた。三国はその絶壁をよじ登ったあと、森林地帯を逃げて行き、その途中で土地の遊女(左幸子)と出会うわけである。

その仏が浦は、点ではなく線としての一定の幅があった。約二キロメートルにわたる海岸線に沿って、奇岩魔窟が連なっているのである。その様子を船の上から見ると、すこぶる迫力を感じる。明治の文人大町桂月はその迫力に打たれて、神のわざ鬼の手づくり佛宇陀人の世ならぬ処なりけり、と歌った。その歌碑が佐井の港の一画に立っている。

大町の歌を引用するまでもなく、たしかに迫力ある眺めだ。奇岩魔窟の類はそれぞれに何ものかを連想させ、その連想に応じて、如来の首、五百羅漢、一ツ仏、親子岩、十三仏観音岩、天竜岩、蓮華岩、地蔵堂、極楽浜といった名前が付けられている。極楽浜に至っては、まさに仏の名に呼応する洒落たネーミングではないか。ここは西を向いているので、たしかに極楽浄土が近く感じられるのである。

一時間ほど遊覧船に乗った後、港近くの食堂に入って昼餉を食した。この食堂は、建物は粗末だが、食い物はまずまずだった。ホタテの刺身にホタテの石焼といった具合だ。これでは酒を飲まないわけにはいかない。というわけで、昼から酒量が進んでしまった。このように昼から酒を飲んでいる者は、同行者の中にはほかにいない。老人が多いせいだろうか。







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