壺齋散人の旅
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陸奥小紀行五:大間、恐山




昼食後、バスは海岸線を北へと走り、大間岬というところに至った。大間マグロで有名な港のあるところだ。また本州最北端という点も売り物にしている。その最北端の所で、温暖な海の生き物であるマグロが獲れるというから面白い。ここで獲れたマグロは、築地の毎年の初競りで日本一高い値段で売れる。一時はその競り値が一億円を超えたこともあった。それを落したのは、やはり築地を本拠にしている鮨屋だったが、毎年のように最高価格で落しているとあって、一躍有名になった。そのおかげもあって、この鮨屋は大繁盛しているということだ。筆者も何回か入ったことがある。

この日は、港の市場には立ち寄らず、灯台のある辺りを散策した。「本州最北端の地」と記した石碑が立っている。その前の売店で、干した昆布と生のワカメを買った。立ち並んだ売店の一つに犬を飼っているものがある。人なつこい犬で、筆者が頭を撫でても嫌な顔をしない。おかげで観光客の間で人気者になり、店の商売繁盛に貢献しているそうだ。

大間を出たあと、バスは更に海岸線を走り続け、四時頃大湊の市街にさしかかった。ここは映画「飢餓海峡」の中で、三国連太郎と左幸子が一夜を過ごす遊女街のあったところだ。映画を見ると、いかにもうらぶれた温泉街と言う感じだが、今では結構開けた感じの街になっている。

恐山は大湊の街の北西にあたるところにある。山の麓から終点へ到る道沿いに、墓石を小さくしたような石塔が一丁(100メートル)おきに据えられていて、終点の十丁手前を超えるあたりから硫黄の匂いがしてくる。ここは硫黄の立ち込める空間なのだ。

恐山とは、山の名前ではなく、寺の号だ。浅草寺を金龍山と言い新勝寺を成田山と言うようなものだ。開基は古く、慈覚大師が布教の旅の途中、土地の霊力に打たれ、自ら地蔵菩薩像を彫って本尊としたのが始まりと言う。その後いったん廃絶した後、曹洞宗の本山として再興された。だからいまでは禅寺の位置付けである。

寺男に案内されて境内を一巡して歩いた。総門、山門を続いて潜るとその先に本堂があり、本堂の手前には温泉の湯屋が三棟立っている。宿坊に泊った者が入浴するための施設だという。

本殿に隣接して広大な庭園がある。庭園といっても、ほとんどは砂地だ。硫黄が強烈で植物が育たないと見える。砂地の上には至る所小石が積み上げられている。ひとつひとつの小石が死んだ者の魂をあらわすのだという。しかし、その小石を持ち帰ったり、また他の所から持ち寄ってもならない。あくまでも現存する小石の範囲内で、積み上げなければならないのだという。

庭園の先には宇曽利湖が広がり、その湖畔に八角円堂というものが立っている。ここは死んだ者の形見を収める場所なのだそうだ。収める時期は夏と秋の祭礼の時期に限られるが、その折には周囲一円から膨大な数の人が集まってきて、故人の形見の品を収める。それ故、その時期には堂内は足の踏み場もないような様相を呈するのだという。

有名なイタコの口寄せは、やはり夏と秋の祭礼にあわせて行なわれる。いまでは、イタコの数がわずか三人に減ってしまったので、口寄せをしてもらうのは至難のことらしい。

宿泊先の陸奥グランドホテルは大湊の街のはずれにあった。11階建ての大きなホテルだ。「飢餓海峡」のひなびた温泉のイメージとは程遠い。館内の案内板には、結婚式やパーティの案内が多数記されていたところから、地元の人たちによく利用されている様子が伺われる。

早速入浴するに、湯は半透明で塩味なし。効能書きにはアルカリ単純泉とあった。

夕食後、ウィスキーを舐めながらの団欒のひと時に、映画「飢餓海峡」が話題に上った。I は、この映画の主演女優左幸子が好きだという。その I が、彼女はたしか羽仁進という映画監督と結婚して、その後離婚したわけだけど、何が原因だったんですかね、というので、筆者は知っている限りのことを話してやった。羽仁進は、親父が歴史学者として有名な羽仁五郎で、祖父母は自由学園の創始者だ。いわば日本の進歩的なファミリーに育ったわけだが、女癖のほうも進歩的だったようで、女房の妹に手を出した。それを知った左幸子は大ショックを受けたが、亭主の羽仁は悪びれることがない。悪びれるどころか、女房を追い出してその妹を後添いにし、左幸子が生んだ娘は自分の親権下に置いた。この娘が正規の学校教育を受けることなしに、自由奔放に育ったことは、よく知られているとおりである、云々。この話を聞いた I は、左幸子への同情心を一段と深めたようであった。







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