壺齋散人の旅
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白峰で西行を偲ぶ




六月二日(日)雨もよいの一日。起床後朝風呂につかり、八時に朝食をとる。ビールを飲んだのはいうまでもない。その後山子夫妻は近所のうどん屋に行って、うどんを土産に買ってきた。小生の分も買ってきてくれた。香川のうどんは、地元で食うと非常に味がいいと思うのだが、これを持ち帰って船橋で食ってもうまいかどうかは、他日の愉しみに置いておこう。

清算しながら宿の亭主の自慢話を聞く。この旅館は、琴平に現存する旅館のなかでは最も古いもので、金毘羅宮より特別の免許を受けているという。ここら一帯には、もともと温泉は出なかったのだが、昭和の頃に温泉が出て、温泉街としての魅力も持つようになった。ところがその温泉はすぐに涸れてしまい、いまでは遠くの温泉から湯をひいて、客に温泉気分を楽しんでもらっているのだそうだ。ここの温泉は、おそらく昨夜の淡路島の温泉同様、単純泉なのだろう。味もそっけもなかった。

昨夜の申し合わせどおり、まず善通寺を訪ねる。五重の塔が遠くから見えた。我々は、境内地の西側に隣接する裏門から入り、西の部分、東の部分の順に参拝した。西側の敷地は、弘法大師の実家佐伯氏の屋敷だったところ。佐伯氏といえば、大伴氏と並ぶ武門の名家だ。家持の族を諭す歌にも言及されている。その武門から、空海のような知識人が生まれたわけだ。

東側の敷地には本堂や五重の塔をはじめ、寺院の主要建築物が集まっていた。どういうわけか、境内の一角に秩父三十四番札所のミニチュアが設置され、落子によれば、居ながらにして秩父を巡礼した気分になれるという。落子は、さまざまな寺院を巡礼するのが好きで、四国八十八番札所も漏れなく参拝したということだ。その落子が、いつもは持参している奉加帳を、今回は持参していないので、ワケを聞くと、もはや奉加帳も三十冊を超えるほどになったので、こだわりが薄くなったのだという。

ついで丸亀城を訪れる。駐車場が満杯とのことで、しばらく待たされる。ややして駐車場に入ると、そこより石垣の大きく崩れた様子が見える。崩れた理由は、熊本城のように地震ではなく、昨年の豪雨らしい。茶店の女将によれば、昨年は何度も集中豪雨に見舞われ、水の圧力で石垣が崩壊したのだという。その石垣の様子を見るに、大きな石の間に小さな石を挟み、水流はよろしいようである。それがかえって災いしたということらしい。復旧には十年以上かかるのではないか、というのが女将の予想だった。



丸亀城は、例の重文十二天守の一つだが、ほかの城に比べるとずっと小さい。こんなに小さくても重文に指定されているのは、慶長二年という築城の古さのためだ。この城を作ったのは、バサラ大名佐々木道誉の子孫京極氏という。外見もちっぽけだが、内部はさらにちっぽけで、ここで何かが行われるとも考えられない。大名の権威を示すためのシンボルなのであろう。



城は小高い丘の上に立っていて、その丘からはかつての城下町が睥睨できる。城下町の尽きるところには、讃岐富士という、これも小さな山がある。この山を富士と称するのは大袈裟とも思えるが、富士塚と考えればそれなりの雰囲気を感じさせる。地元の人々はこの山に登ることによって、富士に上った醍醐味を味わえるわけだ。先ほどの秩父三十四か所のミニチュアと言い、讃岐の人は疑似名所が好きと見える。

最後に白峰御陵を訪れる。丸亀城からは二十キロほど東に走ったところにある。ここは崇徳上皇が流されたところで、上皇の死後西行法師が菩提を弔いにやってきたことは、日本史上有名なことだ。その白峰御陵は、白峰寺の一角にあり、西行が庵を結んで天皇を偲んだという場所は、西行の道と称して、山深い路をかなり進んだところにあると、案内板に記されていた。我々は、西行の道は、折から雨が降っていて足元も悪いことだし、歩いたことにして歩かず、白峰寺の一隅にあるという御陵のほうを遥拝した。遥拝と言うのは、御陵は寺のかなり深いところにあるので、雨も降っていることだし、帰りの時間もあることなので、これも行ったことにした次第なのだった。

参詣後、寺近くの軽食堂に入って、昼餉をとる。ビールは置いていないというので、水を飲みながらカレーうどんを食って満足した。

食後は、そぼ降る雨の中を車を走らせ岡山に向った。途中瀬戸大橋を渡るときに、不覚にも居眠りをしてしまい、瀬戸の海を眺めることができなかった。岡山駅には四時ごろについた。駅レンタカーに立ち寄って車を返し、四時五十三分の東京行新幹線のぞみ号に乗り込む、四人いっしょに対面して座ることができなかったので、二人ずつ分かれて座ることとなった。そんなわけで、旅の思い出を語り合うことはできなかったが、缶ビールを飲みながら駅弁の寿司を食い、それぞれが旅情の余韻に耽ったのであった。東京駅に着いたのは八時半近く、それ以前に、山子夫妻が新横浜で、落子が品川で下りた。

こんな具合で今回の旅行は、松子が死んで初めてのものになった。この調子で来年以降も、元気で生きている限り続けたいと思う。






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